理解と完成

今日も言うほど何もしなかったな

椎名さんのブルアカ流して、再考察を流したくらい

3連休ずっとやる気なかったな

 

この軽い風邪、もしかして花粉症じゃないよな...?

と疑い出してる

 

恐山が俺の世界一すきなゲームこと、The Withnessをやってくれてたけど、理解が早すぎて↑みたいな感じになっている気がする

メタ読みに慣れすぎていて、初見の大まかな気づき要素の7割くらいはもう一通り気づいちゃって「そういうゲームね」というラベル付けが早くも完了してしまい、あとは半分作業(パターン)で飽きてしまう、みたいな

 

 

若干わかるところもある

「自分の中での理解」= 完了、成し遂げた、という形に脳内でなってしまい、それを完成させることに興味が湧かない

みたいなことをどっかの日記に書いた気がする

(付け加えて、その作業とみなした「完成の工程」にも新たな気づきがある可能性があるかもしれない)

 

別の話だけど、「批評のために無理やり全部見る」とかは、見ていない部分に気に入らない何かの前提を吹っ飛ばすような何かが隠されているかもしれないのに、途中で理解した気になって下車するのは、作者に向き合わず期待しない不誠実さ泣きがする(序盤だけで期待できる、と読者に思わせるのは難しいはず)

まぁ、別に無理に見切るとかやんないけどね俺

(例:16bitセンセーション、はよみろ)

 

またこれも別だけど、ソフトウェア系の研究でソフトウェア開発自体は軽視されがちみたいな風潮もちょっと似ているかも

 

完成させないと誰かに伝達できる形になんないのにね