循環

う〜ん、ダルいなぁ...

9連休とはいえ、1/2くらいを風邪で過ごしたからあまり感触がない

いや、風邪でなくても結局こういう感触なんだ

だから、長期休みって好きじゃないんだよなぁ

 

長期休み(1週間)は年末年始くらいで、他週休3日で常に稼働がいい...

OFFにしすぎてしまう

 

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マギレコscene0を見てた、ながらで

 

序盤の退屈さどうすればいい〜ってo1に聞いたうちの1つを採用

この「ながら」は物語に対して真摯な姿勢ではないんだけど、まぁ遊びだし好き放題していいべ、の気持ちでいく

 

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別の世界線とはいえ、整合性取れているというかお遊びじゃないの凄いな

日常系きゃっきゃうふふの逃げがないというか、きちんとシリアスで本軸が通ってる

 

 

序盤のまばゆの消極性が光っていた

「失うとわかっているから助けない・愛さない」というのは、鹿目まどか的には不正解

「失うとわかっていても助けるんだ!」という希望の塊だから、それにまばゆが当てられて光になる感じ

 

でも、見終わったのまだ半分なんだよな...

長文感想ベタ張りは最後に

 

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体感では「今日、休日一日使って見た」感じなんだけど、それでも消化6時間分なんですよね、意外とそんなもんしか見れてない

こういう許容量を明文化するの大事よね、消化速度の見積がしやすくなる

 

このツイートに写ってる「見積時間(単位h)」の話をしている

趣味といえど、意外と人間ってそんなにこなせない

 

 

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この流れ面白い(興味深い)、ノブレスオブリージュを感じる

 

これに関してはo1 proに投げても「社会貢献も大事ですよ!」ってエリート思考に腰をヘコヘコしだすつまらない回答するに違いないから、人間が考えるしかない

 

 

ちなみに俺は「社会に貢献しなくても全く悪じゃない」と思う

自分が生きることに必死で得ざるを得ないなら、それがそいつの人生であるべき

これは全く嫌味でない

 

外界から無理に「社会貢献しろ」って言っても、そいつの中で学んできた「価値のあること」を簡単に変えられる訳ではない

あるとしたら、そいつに対して社会貢献をすることで「この人間すげー」って自ずと思わせて価値観を変えようとする程度

 

 

こういう人って、人生の序盤で相手に与えても返ってこなかったりした割合が多いからそうなっている(体感)ので、恨めるとしたらソイツ(親)くらい

まぁ大抵、親の親も...なんですけど

 

「社会に貢献している場合ではない」となると、確かなものを求める傾向にある

そりゃそう、与えて返ってこなかった人生を過ごしたら、返ってくる確率を高くしたくなるに決まってる

 

 

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ちなみに、これは豊川祥子のことを考えて打っている(?!)

確かな台本を集めて成功しようとしているので

 

翻訳:またしても、「才能」が咲子の人間関係を台無しにしてしまう。

彼女は、崇拝するか、憎むかのどちらかになる「理想」です。

娘でもなければ、仲間でも、友人でもない。彼女には人間性が与えられていない。

 

 

 

人生の途中で誰かから「人のために」という対象へと巻き込まれて、遺伝でない別の循環に入り込んでくれれば、善な価値観になると思うけど

 

 

===以下おまけ===

 

【今週の日記振り返り】

自分を強く持ちたい、という週だった気がする

風邪になったのもそうだが、人と話す(相手の奥底を引っ張り出す)とか、属性的で操作的なビジネスに乗りすぎずに今を楽しむようにしたいとか

流されるべきタイミングはミクロな人間関係を保つために注力した方が良くて、マクロな対コンテンツには強固に自分を持つべきだと思う、乱数は流し込みたいけど

 

お、まてよ

じゃあ、普段の生活は硬直しやすい(同質的な人間関係を築きがちになる)から乱数を取り込むべきで、インターネット等の電子空間では流動的(企業の意図する流行に乗せられやすい)から強く硬直を望んで味わうべきということ?

 

===

 

【マギレコメモ ベタ張り】

 

  • scene0 Film2

まだ下準備段階という感じだったけど、面白い

傍観者、もっと言えば視聴者の罪について、問いただしている

本当に間近で「ワルプルギスの夜の敗戦」を見た場合、尊いだの言ってる暇があるのかということを突きつけに来ているようにすら感じる

 

ほむらの時間遡行に乗っかっていると、現実の選択肢のうちの1つでしかない、現実ではないように感じるが、ほむらの強い思いと選択で気付かされる

 

というか、まばゆの魔法少女(戦闘力でなく仕組み)の適性がありすぎる

ソウルジェムが本体」すら、「まぁそうか…」で済ませられてしまうって、アニメ版中盤の見せ場ですよ

そう考えると、まばゆの映画好きって設定は「スクリーンの向こう」感への批判対象なのかもしれない(これは視聴者も対象に取る)

 

 

まどマギって最初から、まどかという希望の象徴を視聴者に配るためのアニメだからな…

don't forget.
always,somewhere.
somewhere is fighting for you.
as long as you remember her.
you are not alone.

忘れないで。
いつも、どこかに。
どこかがあなたのために戦っています。
あなたが彼女のことを覚えている限り。
あなたは一人ではありません。

てめぇ(視聴者)も、この話をマジだと思って希望を掴めよって

 

理性的にはこの1周を傍観に費やしたまばゆの選択は正解だと思うけど

でも、そういう話じゃないんだろうなぁ

 

 

希望から目を背ければ、答えることは出来ないため…

 

 

  • scene0 Film3~4

 

元魔女のなぎさも助けるのは、魔法少女と魔女の境目の曖昧さとその全ての存在に希望を抱かせる存在であるまどかの強調、その希望がほむらに伝播して「例え失うものでも愛す」につながる、価値の証明は必要ない

 

今回、別編で出ているまばゆの役割は、その2人の間に入って「鹿目さんんと別れてしまうことに鈍感にならないで」という言葉や「未来を見るが変えられない」という能力

これらは、失うものとわかっていながら愛すための能力として機能する

 

 

 

つまりscene0は、救えなかった物語でも希望を追い求めるための話か?

 

 

おい!これ、まばゆも死を悟るけど、そんな自分を愛すように生きるんだろ!

あと、本編と整合性取るために自分自身の記憶をカットするだろ!