ボードゲームと物語性

カタンが麻雀とか将棋のフォルダに入った

俺が娯楽において感じ取りたいことって、そういった極めることができる娯楽ではなくて、物語などから感じ取った自分だけの感情の反応に興味があるというところな気がする

 

 

極めることができる娯楽は、規則性やセオリーを自分なりに確立していく段階において、俺の論理立てて何かを考えたいという欲にマッチする

しかし、そのセオリーがそこそこ見えてきた段階になると、道の先に既に多くの人が考え尽くして、かなりの強度を持った正しいセオリーが正当にそこに鎮座していると感じとれてしまう

そうなると、それに屈服するしかない時間(守破離、型がなければ型なしであるため、これに逆らうことは普通出来ない)が鎮座していることに気づいてしまう

これ以上、非刹那的に楽しみたいなら、その鎮座しているセオリーを学習するしかない時間が出来上がってしまう。今までは独学によるセオリーを創造する楽しみだったものが、義務感に変わりゆく瞬間を感じ取れてしまう(類似例:アニメの”履修”)。

 

 

であるならば、俺の物語好きは、物語に正解がないことによって、成り立っているとも言える(作者の死)

時々、自分が物語に対して考察できること(これは自分だけの感情とは区分しておくが)を全能感を持って思いついた時、作者にこういうことですよね、って確認したい気持ちが芽生える、要するに考察自慢である。

それはもちろんできないし、するべきでないし、物語性の神秘を失わせる行為であるから、望ましくない行為だ。さらには全然違いますよ、なんて言われたら死にたくなるね。

 

物語は、おおよそ想像と納得の行く人間生活の様相という表面に包まれているから、その物語内にあるメッセージ性を神秘化するのが可能な行為である。この展開、この後の勝利のために組み込まれたものだなと感じると、人間が物語に動かされるキャラクターであると認識できてしまう。

そして、この物語に存在するメッセージ性は、過剰な抽象化から成り立つゲームによって感じ取れるものではない(将棋の捨て駒は駒に意思があったらできないだろう)、ということだ。

 

 

*ただし、極めることの娯楽について、義務感になってしまう様相を超えたら、もちろんそこにはプレイヤー同士の読み合いというものが読み取れるので、セオリーという表層によって包まれた相手の神秘を観測することが可能になってくるので気持ちいいと思う