手書きで書くのは話題の「発散」のためなので、何か書きたいことが決まっていたらこうします
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ゴジラ-1.0を見た
負けたことによって、主人公をはじめとしたみんなが終わっていない戦争を終わらせる象徴としての「ゴジラ」。特攻に行けず、戦争に取り残され続けた敷島は、前の戦争を再生産しようとする。
ただ、軍国主義でない。特攻賛美でない。軍主導じゃないし、犠牲を前提とはしない。これは前の戦争とは別のものだ。
そういえば、ちゃんと反戦系見たの初めてだ
これが俺にとっての反戦映画となるとはな…
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昼間、蓮ノ空の活動日誌のWILLを読んでNarrative Teleology(物語の目的論)・Grand Narrative(大きな物語)について考えていた。
花帆がラブライブシリーズの一員にも関わらず、「ラブライブを放棄する」と言いのけた。それは「ラブライブシリーズ」のGrand Narrativeに違反している。
1.2 大きな物語(グランドナラティブ)と目的論
文学理論、とくにポストモダン思想において、「大きな物語(グランドナラティブ)」 は目的論と密接に結びついています。大きな物語とは「人類は必ず進歩する」「善は最終的に悪に勝つ」といった普遍性を主張するストーリー枠組みです。この枠組み自体が、物語が目指すべき結末をあらかじめ規定し、細部をそれに従属させます。しかしポストモダンの批評家たちは、こうした大きな物語を批判し、現実はそれほど単純ではないと主張します。大きな物語に従うことで、世界の複雑性や多声性が消えてしまう、というのが主要な批判です。
でも、ゴジラ-1.0を見て思ったのは、流石にあそこで「特攻賛美」はないだろうと予想できた。そしてそれでよかった。大きな物語は、確かに人類賛美や善の肯定などの物語のガイドラインを形作り、結末を予想(期待)通りのものにするものではある。ただ、そのガイドラインを放棄しだしたら、待っているのは倫理とコンテキストが存在しないただの混沌である。
違反できるGrand Narrativeと、そうでないものがある。教育的内容を含んでいれば、違反すべきでない。面白さは下がるかもしれないが、教育的教訓の方が大事なものだ。
ラブライブシリーズにおける「ラブライブを目指す」のは、あくまでシリーズのお約束であり、倫理でない。熱烈ファンにとっては倫理と等しい存在になっている可能性もあるが、本質的には「ラブライブを目指す」ことではなく、ラブライブを目指すことによって「何かをなす」部分にもう一つ奥のGrand Narrativeが隠れている。
経典の再解釈のようなものなのかもしれない。
考えてること書いただけなのでオチがないな
花帆がGrand Narrativeの再解釈を試みているのに期待だ