俺が「好きを言語化する技術」が嫌いな理由は、キャッチーさを憎んでいるからだ

 

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「何故働いていると」と「好きを言語化する技術」って同じ作者なの?!

 

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動画の中で「地面師たちは現代日本版パラサイトである説」という、共通項を取り上げたnoteのタイトルを例示していた

 

 

有名作品の共通項をピックしているのを見るに、全体的に寄り添いや共感から出発しているなと思う、本人の話し方もそう

「ヤバいと言いたいのはわかる」や、書き出し例の「あなたは本来考える力がある」などに現れている

(話し方については、本来そちらが出発点だと思うが)

 

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でも俺はそういうキャッチーさをかなり嫌っている

本屋で「好きを言語化する技術」を手に取ったことがあるのだが、その時「中身のないことを言いやがって…」と思って手放した

理由は、最後の完成した文章だけを見ていたからだ

 

"推し”の最もらしさをこじつけて、正当化しているような文章が並んでおり、仏を作って…みたいなことをやってるな…と思った

 

 

あと「正しくなくていい」という言い方もあまり好きではない

この本はおそらく、キャッチーさのフックに”推し”というワードを使って売り出している

 

“推し”というワードも嫌いなのだが、その理由は過剰に自己肯定化を生んでいると思うからだ

「仕事に疲れて帰ってきた。上司はああだし、同僚のなんとかさんは全然わかってくれないし…」と、そういう文句を受け止めてくれるのは”推し”だけだ

みたいな構図は、自分の正しくなさを加速する要因になりえると思う

 

その文脈から見るに、この本に書かれている「正しくなくていい」という文言は、”推し”に対する無責任な消費行動を加速させているような気がして気分が悪かった

(注:俺はまだ社会人でないし、好きで働けるヒトも少数だと思うので、嫌々ながら働けるヒトも(だからこそ)それはそれで凄い)

 

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ここで、私の話をする

先日、研究会か学会かなんかに行って発表をした

 

結果からいうと、まぁ何とも微妙な発表だったと思う

元々緊張しいというのもあったが、主な原因は「そのキャッチーさ」にあると思う

 

他の方の発表を見て気づいたのだが、主に主張の軸が2つに分けられる

1つは中身重視、研究手法(やりたい/やった方法)の内容や結果について厚く話すタイプ

もう1つは表層重視、ある研究目的に対して、何故それを行うと嬉しいかや関連研究などの前提について厚く話すタイプ

 

 

私は圧倒的に前者だった

えらーい教授とかに正当性どうなの、とか言われるのが嫌だったし、何より「仏を作って魂入れず」となるのを嫌っていた

 

しかし、実際に評価されるのは後者だった

いくら似た分野の人たちが集まったとはいえ、相手の研究なんて基本は、何それわからん…から出発する

 

いくら魂を立派にしたところで、仏のガワに共感しにくいとその研究を初めて見る人には理解し難いものに見える

研究という難しいことやってそうな分野でも、初めはキャッチーさが必要だということだ

 

(後、誤解がないように言っておくが、基本教授は優しい。自分の研究に対して、どのように方向性を定めれば良いかというアドバイスをくれる味方が大多数である。潰しにくると感じるのは主観的な間違いで、防御反応を過剰にするのでそう感じてしまう)

 

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元の話に戻る

 

俺に不足しているのは、圧倒的にキャッチー力

「魂作って仏に入れず」が、過剰すぎるということだ

 

現に、前編動画の主張3点

  • クリシェ(ありきたりな言葉)に気をつけろ
  • SNSに要注意
  • 妄想力を鍛え上げる

のうち、上2つは既にこれでもかというくらい実践していることだったのだが、逆に「妄想力」は全く行っていなかった

 

基本的に断言するというのは危険だと本能的に思っている(理系の性)

「かもしれない」や「と思う」をつけてしまう、という内容にかなり共感した

 

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俺が感想を書こうとする時、その感想は「作者の正しさ」を追い求めていることが非常に多い

 

自分は自己肯定感がかなり低い方だ

そのため「自分の感想」なんかよりも、丁寧に梱包された「作者の素晴らしい意見・思想」はどこに、どのように含まれているのかについて、ついつい追い求めてしまう

そして「この作者がやりたい・伝えたいことは、〇〇なのではないか」という形で出力する

 

この”感想”には、自分の感想は実は含まれていないし、思ったという言葉でさらにオブラートに包まれている、俺自身が否定されることはない

 

動画で作者が「妄想力を鍛え上げる」項目について「自分の感情を喋る場合はそれでいい」と言っていた

俺が嫌っていた「キャッチーさ」について、使い所を見極めれば良く使えるだろうということだ

 

 

 

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もっと「キャッチー」な「感想」を出そうと思う

少なくともそこに正しさは求められていない

 

 

でも、”推し”という概念を過剰な自己肯定だと思う嫌悪は、俺の中で本物であるし、この本のキャッチーさに”推し”を採用したのも気に食わない

 

 

だから、この本への「嫌い」という言葉も感想として本当である。